「長野に拠点を構えてるの。」
そう言うと、かなりの確率で、
「目的はなんですか?」
「何をしようとしているの?」
と、聞かれる。
私は、いつも少しだけ返答に困ってしまう。
なぜなら、特に大それた目的も目標もないから。
実際、坂勘に出入りしている人の中には、長野に移住して何かを始めようとしている人や、大きな目的があって来ている人が多い。
私も、彼らの話を聞くのが好きだ。
自分の知らない世界の片鱗に触れられるし、興味深いストーリーを持っている人が大勢いる。
『ただ、長野が好きなんです。』
私は、たいていそう答える。
質問した相手は、おそらく若干不満だろうなぁ、他の答えを期待しているんだろうなぁと思いながら。
「シェアハウスを拠点にして登山に行ったりしているの。」
そう付け加えたりもする。
実際、山登りは私の休日の日の最高の過ごし方で、もはや私のライフスタイルと言ってよい。
でも、私が足しげくここに通う理由は、登山ももちろんそうだが、『長野が好きなんです。』という一言に尽きるのだ。
本当に。
強いてもう少し理由を説明するなら、長野にいると日常生活の中で、‘’心が「ひゅっ」‘’と鳴る瞬間に数多く出会うことができるからだ。
例えば、夕暮れの茜色に染まった空に浮かぶ山々のシルエットに。
例えば、帰路につく道中にふと見たバックミラーに映った八ヶ岳の姿に。
何気ない日常を彩る瞬間に、息をのむ。心が「ひゅっ」鳴る。
あぁ、なんてキレイなんだろう。
標高の高い山を登ると、壮大な景色に心奪われたり、大きく感動したりすることがよくある。
それが、登山の醍醐味であり、登った人しか見ることのできない褒美みたいなものである。
でも、心から感動しても、私の心は「ひゅっ」とは鳴らない。そこには微妙な差があるのだ。
おろらく、日常生活の中で、というのがポイントなのだろう。
登山はある意味、非日常の極みであり、心動かされる景色を求めて行う場合が多い。
しかし、私の心が「ひゅっ」と鳴るのは、例えば『買い出しに行ったスーパーの駐車場から見た空』とか『コンビニに向かう途中に通った水田に映った山』なのだと思う。
そして、もちろん自然は、何も長野だけにあるわけではない。
私が住む愛知県にも山はある。森もある。田んぼもある。
普段、通勤途中に車の窓から眺める木々に慰められたりもする。
でも、私にとって長野のそれは何か違うのだ。
山々の標高の高さや冬の厳しさや、違う理由はあるのかもしれないけれど、上手く説明はできない。
私の最近のお気に入りの心が「ひゅっ」鳴る場所は、塩尻峠だ。
車で、坂勘のある贄川から国道20号を岡谷方面に向かうと、最高地点(標高1000m以上)から一気に下りに入る。その瞬間、諏訪湖を見守るようにそびえる八ヶ岳、南アルプス、そして、一瞬だけ富士山が見える。
私の心は大きく「ひゅっ」と鳴る。
まさに、心を鷲掴み。
はじめてその光景を目にした時はもちろんのこと、2回目であっても3回目であっても感動は変わらない。季節や天候によっても見え方が違うから、もはやこの先ずっとそこを通るたびに私の心は鳴りっぱなしである。
とまぁ、これが私が坂勘に拠点をおいている理由。